私の履歴書

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はじめまして、私はHLL代表の琴寄 博之と申します。このページを御覧頂いているお客様に私を知って頂き、少しでも信頼して頂くために、お恥ずかしながら私の自己紹介をさせて頂きます。

私は1967年、神奈川県横浜市に3男として生まれました。横浜駅の繁華街と横浜港で育った3代続く生粋のハマっ子です。地元の小・中、高校と公立育ち。
高校では当時偏差値50少し程度の中堅高校に通っていました。中学まではまぁまぁといったところでしょうか。

高校ではおそらく当時の先生方が覚えていたらきっと溜息とともに首を横に振られるような生徒でした。3年間目標もなくダラダラと過ごし、遊んでばかりの不良品。諸事情で謹慎処分にもなりました。しかもその間ここぞとばかりにバイクの免許を取りに行くというしょうもない高校生。学校に持っていくのは弁当のみ。重いのが嫌で高校3年の時は自分の教科書すら買わずに借り物で切り抜け、面倒な勉強は一切したくないそんな毎日でした。定期試験まで休んでしまい、職員室の片隅で追試を受けるなんてこともありました。成績は下の下、本当に一番下でした。しかも12クラスのマンモス校で。これでも一応例に習って受験はしましたが、当然のごとく失敗、失敗・・・。いえ失敗とか受験したとか言えるレベルでもありませんでした。

さらに一応浪人時代という名目でしたが、親のお金を予備校に払込んだあげくに一度も行きませんでした。夏休みに県立図書館へ勉強という名目で遊びに行き、勉強している友達をすぐ「休憩しようぜ」と誘惑していたので、当時の友達からは「あいつと来ると勉強にならない」とか、当時身体を鍛えたくてジム(当時スポーツクラブなんてありませんでした)で身体を鍛えていたので 「お前、皆が能力鍛えてる時に筋力鍛えてどうすんだよ?!」と言われる始末。

あの当時の皆、「ご迷惑かけました、ごめんなさい」。

そんな私ですので、就職も安易に従兄弟の経営する会社に拾って頂きました。ところが社会に出て仕事をするようになって私は生まれ変わりました。自分の想像以上に仕事が楽しくなり、電気や物理の知識でも自ら進んで勉強するようになりました。仕事の勉強は今までの勉強とは違い一つ一つ分かりやすく具体的でした。またすぐ結果が出るので、それが嬉しく、そうした小さな成功体験の積み重ねが自信に繋がっていったのだと思います。そんなある日、「あれ?もしかして勉強好きなのかも?!」と思たのです。それが、私の遅まきながらの学習への目覚めでした。

まだ私も若かったので日本が窮屈に感じていたこともあり、有り余ったエネルギーを持ち、その勢いで21歳の時に全て自分で手続をしてCUNYの語学学校にとりあえず受け入れてもらえました。ところが住む家も決めずに渡米したため、トラブル発生。初めからアメリカの仮住まいを3日で追い出されました。ところが捨てる神あれば拾う神ありです。経緯は省略しますが、見ず知らずのアメリカ人がその話を聞いてその日は見ず知らずの私を家に泊めてくれたりと波乱万丈でした。そこからまた家を探したりと紆余曲折ありましたが、様々な人々との出会いや手助けもあり、短期間ではあったものの世界はどこでも人間愛にあふれた素晴らしいところだと実感できる経験でした。今思えば怖いもの知らずになれたのも、メンタルがタフになれたのもこのお陰かなと思っています。

帰国後は元の会社に復帰後、ほどなく25歳の時に産業機械系エンジニアリング会社を起業しました。様々な起業家や職種の出会いが刺激となり自分自身の成長を感じていた時代です。そして研究開発系の会社のお客様や外資系の会社にがお客様だったせいか、皆さん優秀な方ばかり。まだ若かったので「俺も社長だ!」などとと息巻いていたものの、あるのは肩書だけ。自分の中身は見せかけの空っぽというコンプレックスが生まれてしまいました。勿論、悪い意味ばかりではありません。周りの優秀な人達を見ていると、「もしかして、中身から自分もこうなりたい!」という前向きな気持ちにも気づけたのです。

また、全米起業家協会のコンベンションがNYで3日間開催されたのですが、日本起業家協会(当時)のオブザーバーとして参加することになりました。そこでの全米の学生起業家達(大学院生を含むので結構な大人もいます)との出会い、そして同時に一緒に参加した起業家や早慶の優秀な学生であり起業家のタマゴ達との出会い、それが痺れるほどの刺激だったことを今でも鮮明に覚えています。私の気持ちはもう止められないものになっていました。これは今からでも大学に行って本気で勉強したい、自分のコンプレックスを解消したい、そんな思いがついに行動と変わる日は遠くありませんでした
 

それは若さと言いましょうか、一旦火がつくととどまるところを知らず、せっかく起業したものの「このままでは自分の成長が止まってしまう」という危機感から改めて受験をする決断をしました。理解して頂いたお客様達にワガママを言って仕事のペースを緩めながら、受験勉強を開始しました。志望校は早稲田。NYのコンベンションに一緒に参加した早慶の優秀な学生達と触れ合う中で、これまでの学生像がひっくり返りました。少なくとも私の見た学生達はそうでした。だから、行くならどちらかにしようと思ったのです。

大人になってからの受験ですから、格好良く行くなら私大の中で一番の大学、つまりあの学生達のいた早稲田か慶応にしようと思いました。結局、大学のカラーが好きだった早稲田に決めたのです。最初は全くゼロ。まともに受験勉強もしたことがなく、しかも高校を卒業して10年以上経っていました。しかも成績は当時下の下。謙遜ではなく本物の下でした。だから、全てはゼロから。まずは受験勉強ってどうやれば良いのか?から始まり色々本を読んで調べました。ちなみに当時はまだインターネットは個人が楽しむ時代ではまだありまえん。結果的に書籍を参考にさせてもらい、試行錯誤する中で今のHLLの受験勉強法の原点を作り出しました。

後はそれを信じて突き進むのみ。正直、途中で挫折しそうにもなり、不安にもなりながらも、ポジティブシンキングでメンタルコントロールをしながら足掛け一年半の受験勉強でゼロから早稲田大学に合格することが出来ました。サラリと書いていますが、もちろん相当な集中力で受験勉強をしたことは一言言っておきます。簡単ではなく、努力無くしての合格はありません。しかしながら、普通の人よりはるかに合理的に合格出来たことは間違いありません。

在学中は楽しい後輩達(10歳違いの同級生?)に囲まれとても楽しい学生時代となりました。早稲田大学教育学部英語英文科のゼミでは3年次「チョムスキーの生成理論文法」、4年次「インターネットにおける英語教育」が研究テーマでした。そして卒業して文学学士取得後、大学院に進学。実践的な英語を培いたかったこと、そして国際政治を深掘りしたく、早稲田大学大学院社会科学研究科(地球社会論専攻)修士課程に進学します。そこでは国際政治と比較文化を研究。学術修士号取得。またその間もライフワークの大学受験指導を続け、英語認知言語学、認知心理学、脳科学、学習理論、哲学を独学で学び、独自の受験教育メソッドに進化させた結果が現在のHLLとなったのです。

その後、HLL式受験指導は直接指導の大学受験でも受験教材の高校受験でも華々しい成果をあげています。直接指導では大学は早稲田を筆頭に明治、学習院、成蹊、フェリスなど、高校受験教材でも偏差値70以上の全国公立高校合格の実績を持つまでに成長しました。